犯罪被害者の実名報道の是非について。
本日のお題はこちら。
- 作者: 朝日新聞取材班
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2017/06/20
- メディア: Kindle版
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事件そのものについて語るのは、私の手に余りますので、ここでは、事件に対するマスコミの報道について少し書きたいと思います。
悲惨な殺人事件が起きると、マスコミが悲嘆にくれる遺族の元へ押しかけて「今のお気持ちをお聞かせください!」などとやる取材が行われています。
被害者は、生い立ちから日常生活まで暴かれて、連日、新聞・雑誌やTVで繰り返しプライバシーを暴かれる。
さらに、報道されたプライバシーに関する事柄がSNSで拡散され、あることないこと憶測を付け加えられて、好奇の目に晒されます。
私個人としては、このような有様は、理不尽にも命を絶たれた被害者が、さらに尊厳を傷つけられる二次被害だと感じています。
なので、TV報道でそのような被害者のプライバシー暴露は見ないようにしておりますし、SNSでの憶測話にも加わりません。
この相模原事件では、19名もの人々が殺害されましたが、神奈川県警は、遺族から「匿名にして欲しい」との強い希望があったとして、被害者の氏名を公表しませんでした。
そのため、この事件では、被害者遺族にマスコミが押しかけて(私が思うところの)「二次被害」が起きるということがなかったように思います。
神奈川県警が被害者の名前を伏せたことに対し、朝日新聞記者がTwitterでこうとつぶやいたことに対して、web上で大きな批判が巻き起こりました。
匿名発表だと、被害者の人となりや人生を関係者に取材して事件の重さを伝えようとする記者の試みが難しくなります。
記者たちは、自分たちが「人の不幸で飯を食っている」「マスゴミ」と言われていることもわかっており、その言葉が本書にも書かれています。
自分たちが「マスゴミ」と呼ばれていることを認めたのには、驚きましたが。
しかし、実名報道の是非については、社の方針であり、諸外国でも当たり前だということで、あまり悩んだりすることもなく疑問には感じていないようです。
本書内では、朝日新聞が犯罪被害者の実名報道に拘る理由について、次のように説明されています。
「名前は人格の基礎」
「書くことで人権を守る」
「匿名とすることで、(殺害された障害者が)一人の人間として尊重されない社会を容認し、差別意識の固定化あるいは助長につながってしまう」
「実名とすることで、社会にとって、リアリティーに迫って考えられる」
私は、この説明を読んでも、とうてい、納得できませんでした。
私としては、遺族がマスコミの大量反復取材に遭って悲しみを掘り起こされ、被害者のプライバシーが社会に晒されて尊厳を傷つけられることと、朝日新聞記者が本書で述べている理由を比較衡量しても、犯罪被害者の実名報道は正当化されないのではないかと思います。
今のところはそのように感じましたが、犯罪被害者の実名報道の是非については、たくさんの議論が蓄積されているようです。
また、そちらも読んで、考えてみたいと思います。
「味方の選び方」にかかる最後の一線を守ることについて。
世の中には、経済政策のあり方、エネルギー政策、男女の平等、教育への公費投入の程度、移民の是非など、意見が対立する様々な問題があります。
昔はマスコミや学識経験者だけがその問題点に関する議論に参加できました。
でも、昨今は市井の人々もSNSやブログで気軽に意見を言えるようになり、web上では毎日のように対立する問題点について、様々な議論がなされているようです。
自由な議論こそが、抜き差しならぬ対立があって、妥協は不可能であるかのような問題点について、再考と歩み寄りによる解決策の合意を得ていくきっかけになるのではないかと思います。
ただ、その議論を眺めていると、自分の意見を正当化したいのか、多数派の獲得を目指すためなのかはわかりませんが、味方にしてはならない・仲間となってはいけない人々を引き入れている例が多くみられます。
原子力発電に反対だから、暴力革命を公然と主張する極左テロリスト集団を仲間にする。
ある経済政策に反対だから、妄想にとりつかれてデマを繰り返す元官僚の評論家と行動を伴にする。
移民に反対だから、外国人差別と暴力による排斥を主張する極右活動家の意見を引用する。
たまたま自分と意見が合わない政党を批判する記事が載っていたから、デマと誇張と印象操作ばかりやっているwebニュースサイトを論拠とする。
自由な議論における意見は、「誰が言っているかではなく、何を言っているか」でその価値が測られなければならない、というのは尊重しなければならない原則だと思います。
しかし、上に挙げたような「味方」「仲間」を得て、自分の意見の正しさを主張したとしても、多くの人々に賛同してもらえるとは思えません。
本来は自由な言論による説得と合意により問題解決をはかっていくべきなのに、問題解決には関心がなく、暴力・捏造・印象操作によって政治的・経済的な利を得ようとする勢力というのは実在します。
暴力、捏造、印象操作を常習とする勢力と仲間になることで、合意による解決の道を捨てようとしていることに気付かないのでしょうか。
また、意見を異にする人々、中立な人々から広く賛同と合意を得ようとするとき、そのような「一線を越えてしまっている人々」と仲間であることが、著しく、意見の信頼性・説得力を低下させていることにも無頓着なのかもしれません。
なかには、暴力的な言動を行うこと自体が目的になっている人々すらおります。
私は、自分の意見とたまたま合っているからといって、仲間として扱ってはいけない人々を見極め、最後の一線は守っていきたいと思っております。
合理的に正しい選択をして理想の金融業へ変化できる?
本日のお題はこちら。
- 作者: 森本紀行
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2017/08/08
- メディア: Kindle版
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フィンテックの進展で、既存の銀行業務はどんどん自動化・システム化され、多くの銀行員の仕事が失われる・・というお話はよく聞こえてきます。
いえ、銀行に限らず、あらゆる職業のあり方が変わっていくというのは、短期的なのか、長期的なのかという時間のズレがあるとはいえ、間違いのない事実なのでしょう。
なので、著者が主張する銀行員の仕事がなくなるという意見に対して、いろいろツッコミどころはありますが、ここでは反論はしないでおきます。
ここでは、そのことではなく、投資信託や年金保険など、銀行で販売されている金融商品の売り方について、書いてみようと思います。
森長官率いる金融庁は、従来、売れ筋商品であった毎月分配型を中心とする投資信託(信託報酬などが高めで高コスト、分配の度に課税されるため税負担も重い)を顧客本位ではないとして排撃しております。
これに対して銀行側からは、次のような反論がよくなされています。
「森長官が推薦するような、長期的に収益が得られるようなインデックス株式投資信託などは顧客には求められていない。毎月分配型の投資信託は、顧客のニーズに合っており、実際に顧客満足度も高いというのが何よりの証拠である」
これに対して、本書の著者は、森長官の改革を支持しこう述べています。
顧客本位と顧客満足は異なる……顧客側の視点においては、自分自身の心の中にあるニーズが感覚的に満足されれば、仮にそれが非合理な選択の行動となっても問題視できず、結果として自ら自己の利益に反してしまう……顧客の立場に立つことと、顧客を満足させることには、重なる部分がないわけではないものの、明確が違いが存在する。
顧客本位で行動すべき銀行が、顧客が満足しているからといって、高コストの非合理な毎月分配型投資信託を売ってはいけない、ということなのでしょう。
世の中には効果が怪しい(ほとんど効果がない、非科学的な)サプリメントや水素水など、「非合理な商品」が溢れています。
生活必需品以外の消費は、多かれ少なかれ非合理な面がありますし、それを購入することで、人々は満足を得ていることも確かでしょう。
しかし、大切なお金を預かり、公共性も求められる銀行が、そのような「非合理で」顧客のためにならないものを売ってはいけない。
・・理屈としては、わかります。
ただ、森長官の進めようとしている「合理的な」改革は、人間の非合理さの前に挫折するような気がしてなりません。
人間は、合理性だけを追求して生きていません。
理想社会を作るために合理的に正しいこと邁進している人などめったにおらず、多くは刹那的な享楽を求め、ダラダラと生きているのです。
ましてや、それぞれの顧客や銀行が、合理的に正しい選択をすれば、総計としての社会が良くなるのでしょうか。
少なくとも、私自身は合理的に、正しくは生きていません。
森長官の理想は、はたして実現するでしょうか。
事実を観察して意見を変えられない人々について。
毎日、社会では多くの出来事がおき、報道機関によって取材されてニュースとなり、人々に伝えられます。
報道機関によって論調は異なりますが、同じ新聞社の配信した同じ記事をみても、それを見た人によって漏らす感想は驚くほど異なります。
特に、価値観が鋭く対立しがちな、社会保障や教育への公費投入問題、男女の役割分担に関する問題などについては、同じニュース記事を読んでいても、まるで異なることを言っていたり。
「こういう社会問題がある」という設定自体は、記者や報道機関の価値観が投入されて作られています。
残念ながら、記者は多くの事実を観察して浮かび上がってきた問題を報道するのではなく、最初に今までに身に付けてきた価値観を事実へ投げ入れて、「ここにはこういう問題がある」という記事の作り方をしているのではないかと。
最初から、結論は決まっていて、それに合う「事実」を拾ってくる。
そういう作り方をしているのではないかという記事が多いのではないかとも感じられるわけです。
毎日、多くの出来事が起き、毎日それを報道しなければならないますから、長期的な取材に基づいて問題を浮かび上がらせるという手法がとれないのは、やむを得ない部分があるのかもしれないのですが。
マスコミのそういう姿勢は、しばしば人々の批判を浴びています。
しかし、ニュースを読む読者の側でも、最初から自分の意見は決まっていて、報道事実を見てもなかなか考えを変えることはしません。
なので、最初に書いたように、同じニュースを読んでもまるで違う感想を漏らすのでしょう。
自分の価値観に合わない報道をみて、「事実はこうなのか。ならば今までの考えは間違っているかもしれない」と意見を変えるようなことができる方はなかなかおりません。
記者と報道機関がまず「選択」して事実を切り取り、さらに読者の側でも自分の価値観を「確認」するだけのためにニュースを読む。
この複数の「選択と確認」の運動が働いているので、社会の考え、空気というものはなかなか変わりません。
自分自身、今までの「常識」に反する事実を突きつけられた時、冷静に意見を変えられるか。
そんなことを考えております。
お金を木の葉からじゃなくて「信用」から創り出すお話。
狸が木の葉をお金に変えてしまう昔話を聞かされて、「道端に落ちている木の葉をお金に変えられたらなあ」と空想したことがあるのではないでしょうか。
もちろん、これはお伽噺でして、狸ならぬ人の身では木の葉からお金を創り出すことはできません。
今日、流通しているお金を見ますと、「日本銀行券」と書かれています。
お金を創り出しているのは、日本銀行という特別な法人です。
法律によって特別に認められて、強制的に流通する日本銀行券というお金を発行しているわけですね*1。
日本銀行券が精密な印刷技術で作成されています。これを勝手に作ること=偽札作りは重い罪に問われてしまうことになります。
ところで、日本銀行以外でも、「お金」を創り出せる存在があります。
それは、こちらも法律によって特別に認められて「預金」を受け入れることができる存在である「銀行」という特別な法人です*2。
銀行は、みんながもともと持っている日本銀行券=お金を預かり、請求されれば、また日本銀行券で払い出してくれます。
この段階では、お金は創り出されていません。ただ、同じ価値があるもの同士を交換しているだけですね。
銀行には、預金を預かる他に、お金が手元にないけど使いたいという者に向けて貸出を行います。貸す時は、いつまでに、利子をつけて返すのか、書面で契約書を交わしますね。
この時、みんなから預かっているお金(=預金)を貸し出しているのでしょうか?
実は、違います。
「銀行が貸出を行うためにはあらかじめ日本銀行から同額の現金を引き出して用意しておかなければならない」
— すらたろう (@sura_taro) 2017年8月9日
「銀行が貸出を行うためにはあらかじめ他の預金者から貸出金と同額の預金を預かっておかなければならない」
これ、どちらも誤解です
銀行は、みんなから預かっているお金を金庫にしまっておいて、借りたいという人が現れたらそれを取り出して渡しているのではありません。
また、日本銀行の大金庫にしまわれている日本銀行券を取りに行って、借りたいという人に渡しているわけでもないのです。
貸出を行う時、銀行は、「この人は将来、約束通りお金を返してくれるのだろうか?」ということを見極めて審査します。審査が基準をクリアしてくれば、借りたいという人が銀行に持っている預金口座に、電子的に書き込みを行います。
「預金 1億円」と。
この預金1億円という通帳に書き込まれた数字は、銀行の預金窓口に行けば、預金残高を減らすということと引き換えに日本銀行券に交換してもらえます。
お金に変えられたのは、木の葉ではありません。
お金を借りたいという人が、将来、何か価値を生み出すことをして、ちゃんと返してくれるだろうという「信用」がお金を生み出したのです*3
借りた人は、お金をタダでもらえたわけではなく、将来、利子をつけてお金を銀行に返すという約束(=負債、債務)を負っているわけですね*4
銀行も、お金を借りた人も、偽札作りで逮捕されたりしません。
信用という、目に見えないものからお金が創り出されました。
長くなりましたので、創り出されたお金の行先については、また稿をあらためまして。
この辺りをやさしく説明してくれるテキストはなかなかないのですが、下記の2冊を挙げておきます。
- 作者: 池尾和人
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2014/02/07
- メディア: Kindle版
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- 作者: 内田浩史
- 出版社/メーカー: 有斐閣
- 発売日: 2016/12/26
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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入門レベルの経済学の知識があれば、さらに理解がすすむと思います。
*1:実際に日本銀行券を印刷しているのは、独立行政法人国立印刷局です。
*2:本記事では、銀行や信用金庫等を総称して「銀行」と呼びます。預金保険法第2条に掲げられている銀行、長期信用銀行、信用金庫等が預金保険法上の金融機関になります。厳密な法令上の規定ではここに掲げられている金融機関が扱っている金融商品のうち、同条②に掲げられているものが預金というものになります。経済的な性質では、農協や漁協が受け入れている貯金も、預金と変わりありません。
*3:これは、教科書では、銀行による信用創造として説明されています。借りる人の信用だけでは足りず、他の人の信用=保証人を立てることや、返せなくなった時に換金するための担保を銀行から要求されることもあります。
*4:将来、お金を返すという約束は目に見えません。これは企業の帳簿に借入金と記入されるだけで、物理的な形があるわけでないのです。借り手が企業ではなく個人なら、帳簿すら存在しないでしょう。
「やっぱり嫌い」という確認と共有について。
蛇や昆虫など、生理的に嫌いな生き物をわざわざ見に行って「やっぱり嫌い!」ということをする人間はあまりいないのではないかと思います。
ところが、嫌いな相手が同じ人間の個人であったり、あるいは人間の集まりである企業組織や政党、大きくは国家だったりすると・・
毎日毎晩、嫌いな対象に張り付いて、
「また嘘を並べている」
「やっぱり酷いことをやるんだな」
ひたすら怒りを表明している人々を見かけます。
怒りの対象は有名人(政治家や芸能人)であったり、マスコミや金融機関などの企業、自分とは政治思想が合わない左右の党派、近隣諸国、あるいは日本という国そのものだったり。
思うに、嫌いな対象を「やっぱり許せない」と毎日繰り返せずにはいられないのは、「嫌いだ」というのが自分自身の一部になっていて、負の感情を表明することで自分自身を確認しているのではないかと。
嫌いなはずの対象が、自分の心の一部になっている。
不幸ではないでしょうか。
何が幸せなのかは、人それぞれの心のなかにしかありませんので、私からとやかくは言えないのですが。
ただ、嫌いな対象がこんなに酷いことをしている!俺の嫌いな気持ちを共有してくれ!!とSNSなどでやられてしまうと、こちらの目にも入ってしまうので、それは止めて欲しいなあ、と。
私個人としては嫌いなものはなるべく見たくないので、視界に入ったら、黙って目を背けます。
自分からは、大きな声での「嫌いの共有」は控えたいと思います。
異界に転生して世界とか救っちゃうお話・・ではないけど。
本日のお題はこちら。
- 作者: 前野ウルド浩太郎
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2017/05/26
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※内容についてのネタばれを含みます。未読の方はご承知のうえ以下をお読みください。
読む前は、こんなお話かと思っていました。
バッタの研究で博士号を取ったものの、就職の道が険しいため遥かアフリカのモーリタニアへ・・
科学の力で人々を苦しめるバッタの大群を退治して国を救済して英雄となり、大統領から名誉ある「ウルド」のミドルネームを授けられる・・
・・違いました。
「バッタを退治する画期的な方法」はさっぱり本書内には出てきません。
そもそも、なかなかバッタに出会うことはできず、フランスへ行ってファーブルの生家を訪れて感激したり、
日本へ一時帰国して京都大学の研究員面接に行ったり、
雑誌編集者と出会ってweb連載をもらったり、
ニコニコのイベントに出たり。
まだ研究は途中なのでしょうし、異世界冒険譚として最高に面白いので問題ないかと。
いちばん印象に残ったのは、バッタを観察する前に殺虫処分されないようにお願いするため、スタッフたちに丸々一頭のヤギをプレゼントし、一緒に食べて人々の心を掴む場面です。
夢をかなえる人っていうのは、こういうふうに行動して人々に支援されて目指す所へ辿り着こうとするんだな、と。
見るものすべてが新しい子どもの頃のワクワク感、思い出させてくれる一冊でした。
まだお読みになっていない方もぜひぜひ。