個人的な好悪を社会全体に仮託して自由を圧殺しようとする人々について。
人間は群れて暮らしていますが、お互いに他者に踏み込んでこなければ、何をしても自由であるべきではないかと思っております。
ただ、それは他者や社会に完全に無関心だ、ということを意味しているわけではありません。
直接、私自身に関係がない他者の振る舞いであっても「これは許し難いな・・」と憤りを感じることもあります。
極端な自由主義者であれば、「それはその人の自由だ」と言い切れるのかもしれません。
でも、その振る舞いで、誰かが傷つけられて、踏みにじられている時でも黙っているべきでしょうか。
ただし、その許し難い人物と行いを糾弾するとき、最低限の自分のルールとして「自分個人の規範意識、価値観に照らして許せない」というだけに留めております。
誰かを許せないと思っても、
「みんな、あなたの行動は許せないと言っている」
「社会の常識からしてあり得ない」
そういう憤りのぶつけ方はいたしません。
自分の個人的な怒りを、顔の見えない社会全体なるものに仮託して公憤にすり替え、正義を振りかざすような真似はしたくないからこそ。
個人的な好き嫌いを、あたかも社会全体が要請している正義であるかのようにぶつけ、自由を圧殺しようとしてくる人々をみる度に、その思いを再確認しております。