すらすら日記。

すらすら☆

職場の忘年会は楽しいですか?

世間では、忘年会シーズンのようです。

取引先や同業者団体ともあるでしょうが、多くの方が参加するのは自分が働いている職場での忘年会ではないでしょうか。

大きな組織だと、部署全体、課ごと、係ごとのように、似たようなメンバーで3回くらいやる部署もあるようです。

最近は、特に理由も無く職場のメンバーで飲み会に行くことも減少していますので、忘年会はめずらしい機会なのかもしれません。

共通の話題は仕事のことでしょうが、居酒屋などで守秘義務に触れるような話もできません。
そうなると、話題は昔の武勇伝の回顧や、そのにいない人の噂話、もっといえば他人の悪口で「盛り上がる」ことになります。
そういう話題が大好きな人もいるようですが・・

同じ部署で忘年会を似たようなメンバーでやると、また同じ話題の繰り返しです。

いや。年に1回だけの忘年会でも「その話題。前にも聞いたような気がする・・」というレベルが、職場の飲み会の実態なのかもしれません。

こういう忘年会を楽しみにしている方が、どのくらいの割合で存在するのか知りたいです。


無能な中高年を解雇して未来ある若者を、という一面の正義の前に。

「無能な中高年の雇用を続けるくらいなら、そんなのはクビにして未来ある若者のために席を譲るべきだ」という意見も耳にします。

確かに、周囲を見回しますと、もはや職業能力の向上は見込めず、実際に何らやる気のない中高年従業員はゴロゴロいます。

やる気がないだけならまだしも、仕事の邪魔ばっかりして、物事が進まない原因を作り出しているような方も。

こういうのが積み重なって、会社全体、いや日本社会全体の低生産性の原因になっているんだな、と思いますと、暗澹たる気持ちに。

そんな中高年社員も、家に帰れば家族があり、子どもがいたりするんでしょうか。
「未来ある若者」というやつですね。

中高年社員を「無能だ」ということで解雇すれば、再就職もままならないでしょう。
その家庭の「未来ある若者」まで運命を共にすることになります。

じゃあ、子どもがいない「無能な中高年」を選別して解雇しますか?
なんだか、おそろしい社会が到来しそうですね。

それに、誰が解雇する順番としての「無能さ」を決めるのでしょうか。
決定権を持つのはおそらく、「無能な中高年」自身でしょう。
今だって、無能なのに権力を持っているおじいさんはたくさんいます。

おそらく、正義をなす前に、考えなきゃならないことがたくさんあるのでしょう。
それを考えずに、能力に応じた雇用という正義をなそうとしたら、地獄が現出しちゃう結果になりそうです。



同質性の高い日本社会っていうのは幻想だったの?というお話。

しばらく前までは、日本社会は諸外国に比べると同質性・均質性が高いという社会通念が共有されていたように思います。

しかし、SNSを利用するようになって、自分が属しているごく狭いコミュニティからほんの少し外れた場所では、まったく異なる価値観と思考様式を持った人々がたくさん実在することを知りました。
時折、その異なる人々とネット上で交錯する度、驚きをもってそれらの方々を眺めていたりも。

ただ、その交錯する方々というのは、何かかしら自分の属しているコミュニティに隣接していたり、自分の興味のある話題に関心があったりするからこそ、視界に入ってくるんだ、ということにも。

自分とその異なる人々とが、社会の中で占めているスペースが、少しだけ重なり合っているか、くっついているということですね。

推測するに、社会の中でもまったく職業や価値観、趣味嗜好が異なり、遠く離れた人々とは、いくらSNSが発達し、物理的な障壁がなくなったとしても、決して交錯することはないのではないかと。

そうすると、最初に述べた日本社会の同質性・均質性という社会通念は、互いに没交渉で連絡する術が無いからこそ抱けた、単なる幻想だったのかもしれないなとも。

「近年、格差が広がって社会の分断が起きている」という声も聞こえますが、ひょっとすると、それは昔からであって、本質的に人々はそれぞれ異なるのでは。

時々視界に入ってくるSNS上で不毛な議論、というか議論以前の悪罵の応酬も見つつ、そんなことも考えています。



「囲い」にいったん入れば、ダメダメでも配慮されるというお話。

人々はその持てる能力や財産にかかわらず平等であり、人として尊重されるべきというのが社会の建前になっています。

仕事の能力が乏しいA君に対しても、上司や同僚は一定の配慮を行わなければなりません。
仕事ができないからといって、A君の気持ちを無視したり、A君を飛ばして頭ごなしに仕事を進めたりすれば、A君は自尊心を傷つけられてしまうことでしょう。

なので、わざわざ手順が増えることになったり、仕事の成果物の水準が怪しくなるとしても、その「仕事できない」A君を無視したりすることはできないのが現実です。

企業など、何らかの組織という「囲い」に一度入ってしまえば、この構図に保護されます。

一方、同じ社会の中で暮らしていても、最初から「囲い」に入れない方、「囲い」から放逐された方は、もはや人間として扱われないような場面も。
さらに、「囲い」は少しづつ弱くなり、狭くなっているようにも思われます。

自分の入っている「囲い」はだいじょうぶでしょうか。

私は、個人的には能力が乏しいA君でも配慮してもらえる社会が望ましいと考えます。

持っている「能力」がいつ無価値と断じられ、排除されてしまうか、誰にもわかりませんから。



「ご説明」して「判断していただく」という儀式について。

標準的な管理会計経営管理のテキストを読みますと、米国企業の多くがトップダウン方式で経営判断がなされているのに対し、日本企業の多くはボトムアップ方式で物事が決められて進んでいく、とも書かれています。*1

ボトムアップ方式の意思決定の方法として、稟議制度によって、スタッフ→係長→課長→部長→役員→社長というようにたくさんのハンコを積み重ねていくのも例示として挙げられますね。

部長や役員というのは、それぞれ決裁できる権限が決められていて、ハンコを押します。

それは、部長や役員は、自社の業務、内部事情に詳しいだけではなく、業界全体の動向にも通じ、広く国家社会から企業が要請されることまで理解して、大局的な観点から判断できる見識と能力を備えているとされるからこそ、その決裁権限を与えられているはず。

部長は部長のレベルで。
役員は役員としての見識で。
社長ならば、最上位の視点で。

稟議が回付されていくなかで、中間の管理職や権限者は、スタッフの起案した稟議のまずい点、至らない点を指導して直させ、高い見地で判断を下しくていくというのが建前ですね。

しかし、多くの場合、管理職に任命されている人物は、スタッフとして営業成績が良かったとか、人柄が良いとか、はたまた年齢が昇格年次にあたったからとか、よくわからない基準で昇進しているのが実情です。

スタッフ時代に優秀だったとしても、管理職になった頃にはその実務経験はすっかり時代遅れ。
職位にふさわしい見識なんて備えていないことも。

そのため、業務内容をいちばん理解している第一線のスタッフが、順番に、上位の役職者に「ご説明」をして、「理解してもらって」「なんとか上にあげてもらい」、決裁権限者に「ご判断いただく」という儀式が執り行われることとなります。

さらに、国際的な規制とか新しい法制度への対応とかになると、中間の管理職はその意味や対応する方法もまったく理解できません。
スタッフが、直接、役員や社長に「ご説明」してあげることもしばしば。

この場合、実際に決めているのは、スタッフです。
本来の稟議制度は無意味・無効化されていますね。

こうして、繰り返されるご説明の「儀式」にスタッフはヘトヘトになります。

しかも、組織の縮小により管理職ポストは減少。スタッフはいつまでもスタッフのままで、採用も少なく下の人はまったく入ってきません。


なんだか、若手がいつまでも苦労する、日本全体の縮図みたいですね。*2


本日の参考文献はこちら。

管理会計〔第六版〕

管理会計〔第六版〕



*1:あくまで教科書的な一般論であり、日米とも多くのそうではない企業が存在することは承知しております。

*2:ディスクレ:本ブログはチラシの裏レベルの個人の感想であり、学術的な調査によるものではありません。特定の企業内のものでもなく、日本企業全般に一般化される事実でもありません。

嫌いって、疲れます。

「誰かが嫌い」という感情は、

その人の行動が許せないという怒りとか、
バカな振る舞いをしているなという軽蔑とか、
何を言っても変わらないだろうという諦めとか。

生理的に気持ち悪いというのもありますね。

とにかく、「嫌い」はいろいろな感情が入り混じって構成されています。

諦めはともかく、怒りとか軽蔑はたくさんのエネルギーを消費しそうで、疲れるんじゃないかと。


誰かを嫌いになるためには、許せないとか、バカだとか何か自分としての基準があるのでしょう。

人間の持っている基準は、同じ国に住んでいて、同じ言葉を話していても少しづつ、子となっています。
それぞれ、性別、年齢、職業、学歴、家族構成、所得水準、育った地域・・基準を他者と「ずらす」パラメーターはほぼ、無限にありそうです。


私も生身の人間ですから、私にも基準があって、嫌いな人がいます。
でも、嫌いっていう感情は疲れるので、なるべく目を逸らすようにしています。


それが、互いの平和のためですから。



「詰んでいる日々」を安寧に暮らすか、荒海に放り出されるか?

S君は時代が昭和から平成へ代わる頃。
そう、バブルの終る頃に社会人になりました。

大量採用の時代だったので、同期入社は多かったのですが、どんどん辞めていって、気づけば残っているのは半分ちょっとくらいでしょうか。

さて、S君も40代後半にさしかかり、昔であればもう管理職になってもいい年代です。

ところが、定年延長や再雇用制度の影響もあり、まだ管理職の中心は50代後半から60歳近くの方々ばかり。
その上の偉い人( )になるともう60歳を過ぎたおじいちゃんばかりです。

また、政府からの「指令」に応えて女性管理職の数値目標まで出てきました。

人口減少が続く中、会社自体の成長なんて望めず、営業拠点が少しづつ減り、組織がどんどんフラット化して管理職のポストは減る一方です。

S君は、自分の能力や社内での評価も考え、これはもう無理だな、と感じました。

悪いことは重なりまして、S君の下の30代後半から40前後の社員は、就職氷河期世代で極端に人数が少ない状態です。
S君は、もう時代についていけないおじいちゃん管理職に「決めさせる」ための「ご説明」をしつつ、現場仕事も掛け持ちして手を動かさなきゃなりません。


どっちを向いても、「詰まって」いることは明らかです。

ふと、昔、興味本位で読んだ「希望は、戦争」という本を思い出しました。

どんづまりの社会の閉塞で絶望する方が、社会の流動化を起こすために戦争を望む、なんていうあれですね。

いえいえ、戦争なんか起きなくても、かつては無風であったS君の業界にも再編の圧力がひたひたと押し寄せてきています。
他業界ではもう当たり前になった事態が、ようやく迫ってきているようです。

嵐が起きれば、弱い順番に船から振り落とされて荒海に放り出されるとか。

希望の無い詰んでいる日々の中で生きるか。

それとも・・

S君の選択はどうなるのでしょうか。



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