すらすら日記。

すらすら☆

人間関係の「リセット」の効用について。

高校生から生まれた街を離れました。

その後も大学は東京へ出て、また戻ってきて、人事異動のサイクルが3年程度の企業へ勤めることに。

進学や就職、人事異動で場所を移ることで、人間関係をその都度、リセットしてきたような気がします。

地元に帰省してももう会ってくれるような同級生はおりません。

もう、東京などへ出て行っていたり、文字通り他界してしまったりして、親しかった人は誰もいない。

勤めてからも、一日のうちかなり長い時間を過ごす職場の人同士でも、転勤したら、ほぼそれっきりでした。

学校や職場は、ヘタをすると家族よりも長い時間を一緒にいたりするので、どうしても人間関係が濃くなってしまい、お互いの合わない部分がひどく気になったりするもの。

そうなると、人間関係が濃くなり過ぎて、ウンザリしてきたものです。

職場では自分が異動しなくても周りが定期的に動いていきますから、同じ人間関係はそんなに長くは続かない。

あまり、他者に内面まで踏み込んで欲しくない自分にとっては、このリセット感は救いでした。



逆に、地域の転勤のない職場などで、ずっと同じ人間関係が続き、リセットがないとしたら。

ずっと濃くて、わずらわしくて。

人の力関係とか、誰かへの気遣いとか。


地域社会の絆、などという言葉を聞く度、リセットのない人間関係は地獄ではないかと。




また、春が来て、少しづつリセットされるのを楽しみにしています。



残業削減の可能性は中間管理職の意識と行動にかかっている?

電通の過労自死事件、政府主導の「働き方改革」の呼びかけなどもありましてあちこちの企業組織で「残業を減らそう」という動きがあることと思います。

私のところでも、従来から残業を減らそうというのはやっておりましたが、さらに数値目標付きで「残業削減」目標がおりてきました。

経営層は、「残業を減らして早く帰ろう、スッキリした頭で良い仕事を」と呼びかけるだけじゃなくて、無駄な仕事を減らすためにいろいろ「心構え」的なことも提唱しています。

例えば、会議資料の出来栄えについてコメントを言うのは禁止、あくまで内容について!というのは面白いな、と。

フォントとか、表の形式とか、好みの問題でネチネチ資料を直させる方もいましたので・・


さて、本気で残業を減らすためには、実際の業務フローのやり方を決めており、進捗を管理している現場の中間管理職の意識も変えていくことが必要かと。

ただ、経営層から残業を減らしてくれと言われたから・・

「来月から残業減らしてください。残業削減のために各自、非効率なところを見つけて工夫してください」と現場スタッフに丸投げしている場面もチラリと見えておりまして・・

現場の業務フローのやり方を決め、進捗管理をしているのは他ならぬ中間管理職でして、その管理職が「残業削減の方法を自分で考えろ」というのは完全に職務放棄ではないかと。。

スタッフは決められたことを決められたとおりにやるのが仕事。

管理職は何がスタッフの残業の原因になっているのか把握し、捨てる部分・効率化する方法を考えなきゃなりません。

無理を要求する顧客や社内の別部署との交渉も管理職の仕事ですね。



それをやらずに・・

仕事の進め方は今まで通り

各自工夫して効率化を考えろ

削減数値目標あり

残業したのに時間外記録をしないのは厳禁

持ち帰りも絶対ダメ。


不可能を要求していませんか?


残業削減の可能性は、経営層の呼びかけだけじゃ足りなくて、中間管理職の意識と行動にかかっているんじゃないかな、と考えております。

小室淑恵さんの本はかなり読んでます・・w


人柄と職務能力の関連性について。

人格がクズ過ぎるけど、やたら仕事ができるという人物の類型に関しては、たくさんの該当例を見てきました。

逆に、人柄は素晴らしいのだけど、ぜんぜん仕事ができなくて何をやらせてもダメという方は見かけません。

仕事ができない人というのは、どこか捻くれたものの見方をしていたり、子どもじみた言い訳や取り繕い行為をしたりして、「性格に問題がありそうだな・・」という印象も。

ひょっとして、仕事ができないということで上司から叱責を受け続けたり、日常的に同僚にバカにされたりしているうちに、性格が歪んでしまうのかもしれません。

本来、仕事の能力の高低に関わらず、誰もが職場でも平等な人格として尊重されなければならないという建て前はありつつも、仕事ができない、というだけで日常的に軽く扱われてしまうということもありそうです。

もちろん、職場の大部分の人間は、ごくごく普通の人で、職業能力も普通なわけです。

そういう普通の人の集まりの中に、「人格クズ・仕事ができる」「性格が歪んでいる・仕事ができない」という類型が少数ながら混ざっている。

どこの組織も、そんな感じでしょうか。



ところで、「性格が歪んでいる」などというのは筆者の偏見で、その「仕事のできない人」なる方も、深く付き合ってみたら、本当は「いい人」なのかもしれません。

でも、ゆっくり論理的にやるべきことを説明されても、人の話を聞かずに自分の都合ばかり言う、決められた期日を勝手な判断で破るなど、「信用できない」特徴を備えた人と、仕事を離れたとしても深く交友を持てるでしょうか。


様々な人間の姿を見て、そんなことも考えております。



表情に感情が貼り付いてしまったような方は・・

私自身は、職場で必要以上にプライベートに踏み込んだりするような人間関係はあまり求めておりません。

でも、あまりに職務能力が欠落していたり、人柄に問題があったりするゆえか、あまり話しかけられることもなく、ただ定時が来るのを待っているかのような方を時に見かけると、これもまたつらいだろうな、と。

たまに仕事上のことでうちあわせしてみても、10年以上も前の話を蒸し返してみたり、何が議論すべきポイントなのか理解できないのかまるで的外れな受け答え。


そういう方は、どこでも上手くいかずあちこちの部署をたらい回しされたり、あるいは左遷部署とされるような孤立したセクションにずっとつけ込まれてしったり。

ある意味、組織の犠牲者なのかもしれません。


いえ、私が憶測するように「つらい」などと思っていないのかもしれず。

組織の外に、別な楽しみがあるのかも。

それでも、何か、不平不満が表情に貼り付いてしまったような顔つきを見るに。

どこかに居場所があるのでしょうか。

余計なお世話だ、と言われるかもしれませんが、そんなことを時々、感じております。


仕事を進めるのは人間関係?

出勤すると、特に仕事をしているわけではなく、電話していたかと思うとその相手は上司や同僚で、内容は次の飲み会やゴルフの日程調整。

飲み会やゴルフではひたすら人脈の構築や、社内での人間関係の把握に使われている様子。

ぜんぜん実務をしないのに、気が付くと次の異動では出世している。

そんな人が組織にいないでしょうか。


実務はさっぱりなので、細かい事務や顧客折衝は部下に丸投げ。

もちろん、完全にサボっているわけではなく、何かあるとその人脈を生かして問題を解決をしていたりも。

高度な技術や専門知識が必要とされず、人間と人間の繋がりだけで仕事が進められるような時代であれば、とにかく組織内の内輪の論理に精通していかに根回しすることが重要でした。

ややこしい実務作業は賤しい身分の部下職員がやることで、管理者の役割はひたすら人間関係。



こんな人も組織には必要なのかもしれません。

そして人間関係の機微を見極めて役員レベルまで出世・・部下のご説明も理解できないが、なんとなく勢いと雰囲気で経営していたら・・

経済成長の時代はもう過ぎ去って久しいのですが、こんな人物は書物の中だけでは無く、身近にもいるのかも。


あなたの組織では、どうでしょうか。


新しいことを学ぶことを止めてしまう壁の存在について。

「自分は出来る人間だ、もはや学ぶことはない」と思った日。

なぜ、学ぶことをやめてしまうのでしょうか。

そこに壁があったのかもしれません。

私のいる業界も日々、変化し続けております。

半年も学ぶことを止めれば、たちまち過去の人。

どれだけ年齢を重ねていっても新しいことを学ぶ気持ち、自分の知らないことを知っている方を師として学ぶ気持ちがあれば、仕事をする能力は成長していけることと思います。

周りを見ていると、この人はどのくらい前に学ぶことを止めて惰性だけで仕事をしているのか、わかる時があります。

規制の変化、税制改正、システムの入れ替えについての知識が欠落。

ある時点から先の知識が欠落しており、昔の考えを押し通そうとする。

そういう人はそれなりの処遇しか得られませんが、クビになるわけではない。

若い人に悪影響・・こんな人でも仕事を続けられている。



30代半ばで壁にあたってしまう人もいれば、50を過ぎても新しく学んでいる人もおります。

それぞれの壁は、どのあたりにあるのでしょうか。

ひょっとしたら、壁を作っているのは自分自身なのかもしれません。


「もう、いいや。」

その声に流されないようにしたいと考えております。


リーダーは、自ら信じているビジョンを語るべきだが・・

本日のお題はこちら。

タイトルの「何もしない」というのは本当に何もしないというのではなく、細かな指示命令をせず、リーダーは自らの言葉で自らのビジョンを語ることを仕事とせよという主題です*1

リーダーのビジョンに基づき自ら考え行動できるメンバーが仕事の成否を左右する時代になった

決められたことを繰り返せば良かった時代とは異なり、今日の環境は変化が激しいので、細かな指示をするのではなく、事業がどんなことを目指しているのか、何を社会に提供しているのを語り、それに沿ってメンバーが自律的に動けるかどうか。

このようなことを成し遂げられるビジョン型リーダーシップが求められている・・

理念としては正しく、さらにその事業が社会的に望ましいものである限りはこの方法が良いものと思われます。


しかし、営利事業はきれいなことばかりではなく、あまり褒められたものではない事業も多くあります*2
あるいは、リーダーの語るそのビジョンに共感できないこともあるかもしれません。

そのような仕事ではあっても、まだまだ転職もなかなか容易ではないわが国の労働環境にあっては、疑問を持ちつつも日々の仕事をこなしているのかもしれません。

まして、誰もがやりがいや社会貢献を求めて仕事をしているわけではない。

そのような現実を見るに、ビジョン型リーダーシップが望ましく、それに賛同できない者は去れ、というのは非現実的ではないかと。

そして、多くの企業経営者は掲げるビジョンと、企業の現場は掛け離れております。

本書を読みまして、理想としては美しい。そんな話ではないかと感じた次第です。

こちらの過去エントリーもどうぞ。

sura-taro.hatenablog.com

*1:著者の藤沢久美さんというと、私の中では投信評価会社を設立した方というイメージしかなく、このようなお仕事をされているとはしりませんでした。

*2:複雑で理解できないような金融商品を高齢者に販売することでどんな社会的望ましさが達成できるのか。自問しております。

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