「嫌いの共有化」による仲間意識の確認と正義の行使について。
飲み会などでの嫌な場面として、そこにいない誰かの悪口で盛り上がるというのがあります。
こういうところが嫌いだ、と誰かが言うと、それに協調して別の人も悪口を始める。
その「嫌い」という感情の共有化で、同じ感性を持つ仲間としての意識も確認できる。
また、その「嫌い」も、その悪口の対象の振舞いが人として如何なものか、という正義の感情により正当化されたりもします。
いい大人が、感情だけで嫌いだ、と言っているわけではない、我々は正義を為しているのだと。
これは、楽しいのでしょう。
仲間意識の確認と、正義の行使という二つのことを為せるのですから。
しかし、この「嫌いの共有化」、嫌いな対象は割とどうでもいいようで、コロコロ相手が変わっていくことも。
完全な人間など存在せず、誰しも望ましくない性格上の欠陥を持つわけですから、悪口などいくらでも作れます。
条件は、その場にいない、ということさえ満たせば。
私はそういうのに同調しないし、そういう「嫌いの共有化」を好む人々とは距離を置いていますので、きっと、いないところでターゲットにされているでしょう。
大人ですので、さすがに本人がいる場所では「嫌いの共有化」は行われません。
それが公然化すれば、いじめであり、パワハラになるのでしょう。
そんなことでしか、仲間意識の確認と正義の行使が為せない。
人間とは、寂しいものなのかもしれません。