事実を観察して意見を変えられない人々について。
毎日、社会では多くの出来事がおき、報道機関によって取材されてニュースとなり、人々に伝えられます。
報道機関によって論調は異なりますが、同じ新聞社の配信した同じ記事をみても、それを見た人によって漏らす感想は驚くほど異なります。
特に、価値観が鋭く対立しがちな、社会保障や教育への公費投入問題、男女の役割分担に関する問題などについては、同じニュース記事を読んでいても、まるで異なることを言っていたり。
「こういう社会問題がある」という設定自体は、記者や報道機関の価値観が投入されて作られています。
残念ながら、記者は多くの事実を観察して浮かび上がってきた問題を報道するのではなく、最初に今までに身に付けてきた価値観を事実へ投げ入れて、「ここにはこういう問題がある」という記事の作り方をしているのではないかと。
最初から、結論は決まっていて、それに合う「事実」を拾ってくる。
そういう作り方をしているのではないかという記事が多いのではないかとも感じられるわけです。
毎日、多くの出来事が起き、毎日それを報道しなければならないますから、長期的な取材に基づいて問題を浮かび上がらせるという手法がとれないのは、やむを得ない部分があるのかもしれないのですが。
マスコミのそういう姿勢は、しばしば人々の批判を浴びています。
しかし、ニュースを読む読者の側でも、最初から自分の意見は決まっていて、報道事実を見てもなかなか考えを変えることはしません。
なので、最初に書いたように、同じニュースを読んでもまるで違う感想を漏らすのでしょう。
自分の価値観に合わない報道をみて、「事実はこうなのか。ならば今までの考えは間違っているかもしれない」と意見を変えるようなことができる方はなかなかおりません。
記者と報道機関がまず「選択」して事実を切り取り、さらに読者の側でも自分の価値観を「確認」するだけのためにニュースを読む。
この複数の「選択と確認」の運動が働いているので、社会の考え、空気というものはなかなか変わりません。
自分自身、今までの「常識」に反する事実を突きつけられた時、冷静に意見を変えられるか。
そんなことを考えております。